これからの政治家に望むもの
55年体制が崩壊して、政治の流動化が進み、かれこれ10年。民主党は若い政党であり、国会議員の中にも30代、40代の若手がたくさんいる。政治の追い風に乗って国会に出てきた人もいる。そういう人たちは、千差万別、玉石混交である。国会議員になったけど何してよいかわからない。そうすると、一番簡単にできるのは、憲法論議、あるいは、安全保障論議であり、漠とした理論で、地に足のついていない国会活動をしているのではないかと懸念を持っている。
憲法問題はたしかに、大事な問題で、議論することがいけないとは言わないが、今の日本にとって、政治家がまず、やるべき仕事ははっきりしている。
この崩壊しかかっている社会経済システムをどう立ち直らせるか、そのために具体的に社会政策や公共事業、具体的な政策にどう変革を加えるのか、資源分配の仕方をどう変えるのか、それが政治の一番の課題であると、私は思う。
戦後の日本政治
戦後、占領が終わり、日本が経済発展していく間、日本では政治のリーダーシップはあまり必要とされていなかった。別の面から言えば、政策のめざす方向性が自明であった。どうやったら経済的に発展し、国民が豊かになるか、さらに、発展が都市先行で農村が遅れる国内格差をどう埋めるかということが政治の最重要課題だった。そして、戦後の日本は、どんどん人口も増え、税収も増え、それを再分配することが政治の仕事。ややこしいことを考えず、地元から、あるいは、業界から「ああしてほしい、こうしてほしい」と言われることに応えて資源分配をしていれば、それでよかった。
政治家と官僚
〜閉じた政策コミュニティ
政策を作っていく主体として、官僚と政治家という大きな主体があった。
官僚は、自分のところの仕事を増やす、予算を増やす、権限をとってくるという本能にもとづいて行動する。戦後日本の場合は、例えば、農水省が、農村地域の開発や農民の生活向上のための政策を考え、建設省が、道路とか治水とか、都市基盤整備とかの政策を積み重ねていく。そういったことが、コミュニティーの生活を便利にする、あるいは、いろいろな産業で働く人たちの労働条件を向上・改善していく。小売業や、運輸業や、商業、さまざまな業界に対して保護と助成の手を差しのべていく。
政治家は、このような官僚の組織・権限・予算拡張本能をさらに刺激し、後押しし、協力するというのが基本的な役割であった。いわゆる政官業の鉄の三角形ができあがっていく。
したがって、国の政策決定に関する意思・意図と言うものが、いくつもの省庁に対応して分断化、断片化されて、個別の政策分野の中での欲求の充足にみんながとりかかる。それを、後から足し算をすれば、国益の追求になるという、まことにのんきな構図で政策形成が進められてきた。
そのしくみ(政官業のつながり)ーそれを、政策コミュニティと呼ぶがーが、一般国民の税金をいろんな形で好き勝手に使う。あるいは、一般市民・消費者が高い値段設定で、食料品を買ったり、サービスを利用したり、一般消費者のコストで特定の業界が繁栄を確保する。そういった形で戦後の経済社会が運営されてきた。
つまり、閉じた政策コミュニティというものが、レント(一般消費者が負担する高い食料品や、サービス)を追求していく、それについて、一般の納税者・市民はほとんど何も知らない。人々は、会社に雇われ、会社の中での賃金上昇や福利厚生によって、生活のレベルアップを享受してきたことになる。
政治主導の意味とは
官僚が、今まで自明のものとして乗っかっていた、政策決定の土台・発想を根本的に見直す。あるいは、省ごとに分断された政策決定の意思を、もう少しまとめる、統合する、上から全体を見下ろして、ここはもっと必要、ここはいらないという、国全体の意思、北海道全体あるいは、札幌市全体の意思をどこに持つか、全体を見て、何を重要にするか、そこが政治の課題であると思う。
私はよく、「公共事業いらない派」といわれるが、そうではない。バブルがはじけて、1992年宮沢政権以降、12年間くらいにわたって、何度も何度も景気対策をやっている。延べの予算は、補正予算だけでも140兆円。6、7兆あったら高速道路はできる、20兆円あったら、新幹線が札幌から鹿児島まで全部できる。あの金はどこに行ったんだ。
日本の場合、砂に水撒くように、お金がすいこまれていく。薄くばらまくのではなく、太いパイプで決めうちをする。そういう政治が必要ではないか。
もう一つの政治主導の意味。今は、何が政治の課題であるか、政府の仕事と見なすかルールがない。各省庁の縄張り、権益を拡大するもの、例えばコメ市場拡大などは、積極的にその権益の足場を固めるために群がる。一方で女性のライフスタイルの変化に対応する子育て支援のサポートなどに関しては、それは、個人の問題であるとして政治課題にならない。
2000年以降の日本の社会経済指標
| 項 目 |
2000 |
2002 |
2003 |
全世帯平均収入
(千円/年)
|
7,210
|
6,830 |
6,600 |
全世帯平均支出
(千円/月)
|
31.7 |
30.6 |
30.2 |
勤労者世帯平均収入
(千円/年) |
7,690 |
7,480 |
7,210 |
勤労者世帯債務残高
(千円/年)
|
5,790 |
6,070 |
6,050 |
| 完全失業者(百万人) |
320 |
359 |
350 |
| 完全失業率(%) |
4.7 |
5.4 |
5.3 |
| 企業倒産 |
18,769 |
19,807 |
16,255 |
| 自己破産 |
145,207 |
223,570 |
250,983 |
| フリーター(百万人) |
384 |
417 |
450 |
| 自殺者 |
30,957 |
32,143 |
34,427 |
| ホームレス |
20,451
|
24,090 |
25,296 |
| 生活保護受給世帯人数 |
1,072,241 |
1,242,723 |
1,344,327 |
| 正規雇用者数(百万人) |
369.5 |
348.9 |
344.4 |
| 出生率 |
1.36 |
1.32 |
1.29 |
| 犯罪件数(千件) |
2,443 |
2,853 |
2,790 |
ドメスティック・
バイオレンス相談件数
|
1,096 |
1,528 |
1,574 |
| 児童虐待相談件数 |
18,804 |
24,254 |
26,569 |
具体的に言おう。【表(上記)】をご覧いただきたい。個人の豊かさや生活の安定を示す指標は、この3年間で軒並みダウン。社会の荒廃や個人の貧困をあらわす数字は軒並みアップ。小泉政権の失政の証だ。自殺者34,000人あまり、このうち、9,000人が経済的な動機だといわれている。つまり、借金・リストラによって。これは交通事故の死者8,000人より多い。交通事故については、8,000人の死者に対し道路交通法などの法改正も行われている。
一方で、経済的に行き詰って死のうと思った人はどこにも相談したりするところがない。そこが、政治の貧困さの一番のあらわれだと思う。
こういった社会経済の実態にありながら、それが政治に反映されていない。それこそが、政治の課題ではないか。 政策の体系を見直してみてどこが供給過多で、どこが足りていないか、需要と供給のマッチングを図っていく。それが非常に重要なことである。
そのためには、国単位では大きすぎる、地方分権が必要。道より、さらに、市町村単位の政治が重要になっている。
改革のビジョン
〜リスクの階層
小泉内閣の新自由主義的な改革に対して、私たちはどんな改革を打ち出していくべきか。今の時代、リスクが非常に高まっている。人々はいろんな意味で不安を持っている。それに政治がどんな対応をするかが問われている。
人々の不安は、大きく3つに分けられる。まず、50年100年先には、大変なことになるだろう温暖化の問題などの遠いリスク。2つ目に、今、病気になってもだいじょうぶか、仕事ができるか、中小企業の資金繰りはできるか、など、私たちが健康的で文化的な生活を営むことに対して、つまり年金・医療・雇用・教育などに関する生活のリスクがある。3つ目として、見知らぬ人に襲われるかもしれない、あるいはテロリストが爆弾をしかけるかもしれない、そういったリスク、生命に対するリスク―生存のリスクだ。
去年のアメリカの大統領選のように、どのリスクを重視するかで、人間の政治的選択はかなり違ってくる。アメリカは、医療保険制度もなく、貧富の差がどんどん拡大し、とくに中産階級は没落している。医療保険の充実や雇用の確保などを唱えた民主党のケリーは敗れたのである。9.11以後、アメリカ人自身が、生活のリスクよりも生存のリスクに、大量核兵器など半ば本当ではないと思いながらも、そちらの方を重視、あるいは、目を向けさせられている。生存のリスクを重視するならば、軍備を増強して、国内でも警察権力を増強して、個人のプライバシーを犠牲にしてもしかたがないというような状況になっている。日本も小泉政治の下で、似たような状況になっている。実際問題として、生活のリスクがどんどん高まっているが、これが、政治的な意識を規定する鍵になっていないという状況にある。まして、京都議定書が発効したが、地球環境問題に関した取り組みは、まだまだ遠い先。そうした状況をいかに、打破するか、これも政治のリーダーシップの問題だ。
生存のリスクに対して、姿勢を示すことは大事。かつて、イギリスのブレア政権がシャドウキャビネット時代に、「犯罪に厳しく、犯罪の原因にも厳しく」と唱えて評価された。小さな政府は、必ず大きな刑務所に支えられるわけだ。競争で、敗者に厳しい社会では、当然、反社会的行動が増える。
犯罪の少ない、みんなが自立して、人間らしく、責任ある社会人として生きていける環境を作っていくことが政治の課題である。そのためには、生活面でのリスクを縮小していくことが必要だ。こういう基本的なスタンスを仕立てることが必要だと私自身は考えている。
従来は、生活のリスクを吸収していく施策が、ケインズ風の財政支出、大きな政府路線に傾きがちであったことは反省しなければいけない。そこは地球環境等の制約を考慮に入れながら、新しいタイプの生活のリスクの社会的なシェアの仕方を考えなければいけない。
政治的ステレオタイプの打破
政治の世界は、ある種、言葉・イメージをめぐるたたかいという面がある。「ステレオタイプ」という言葉をここで使っているが、さまざまな物事を固定化されたイメージで表現することだ。生存のリスクを誇張する場合には、「ならずもの国家」とか「悪の枢軸」とか、そういったステレオタイプが安易に使われ、困ったことに、9.11以後、一般に浸透し始めている。他方で、社会保障や、雇用のリスクの高まりに気づいてそれを覆い隠すステレオタイプもある。「自由競争」とか、「自己責任」とかというステレオタイプだ。あたかも、人間が、がんばればそれだけで成功するようなモデルを振りまいている。私はもちろん、近代民主主義社会において、個人個人が自己責任をまっとうすることは大事なことだとは思うが、自分で責任をとるためには、土台、前提条件がなければならない。ちゃんと自分で稼げることが可能になるような土台がなければ、いくら自己責任とか選択の自由とか言っても、空論でしかない。
そういう意味では、国内的には、そのリスクを覆い隠すようなステレオタイプが流布している。そのステレオタイプを打破するための自由な情報の流通や得た情報の共有を行う。ステレオタイプとたたかっていくこと、政治家としてはしんどいけれどやらなくてはいけない。もちろん、われわれ学者も、いろんなメディアで訴えていくということになる。
政治を変革する主体のイメージ
従来、日本には、きちんとした地方政党なり、地方政治家が少なかった。地域レベルで、道民・市民から選ばれた議員さん自らが政策をつくり、行政に対してチェックしていくという体制・能力を持った人が、ほんとうにどれほどいたか。私の友人で市町村レベルでいろいろやっている議員さんには、そういう人も出てきたが、一人でがんばっているというケースがほとんどだ。政党としてきちんと何かを共有して、政策的な発信をしていく、行政をチェックしていくという、自立した活動をすることが今までなかったのではないか。
民主党北海道も自立したローカル政党として、地方の政治を担う専門家を育てる、りっぱな地方議員をしっかり育てる、そのことをしっかりやっていただきたい。少し暴れてみようという意気込みで、みなさんといっしょに政治への関りを強めてみたいと思う。
※山口二郎さんは3月半ばから3ヶ月ほど、総選挙を控えたイギリスに行って、本場のマニフェスト選挙とブレア労働党政権の8年間の総括の調査・取材に行かれます。戻られましたら報告会も開いてくださるそうです。
乞うご期待。
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